ブリタニア遠征2

okuと言う男がいた。
この男はローマに帰化したガリア人であり、
ガリアでは指導者階級であるドルイド階級の出身であった。


幼少の頃に立川に追放されると、
青年時代を狂信的な反ローマ活動に費やした。
計算高く狡猾な男であり、次第に彼は、
立川における反ローマ闘争の指導者となっていった。




立川に到着したローマ軍の司令官マロングラッセに対して、
okuは偽の講和を持ちかけた。
これは最初の半荘で、あえて3位に甘んじる事で
ローマに敵意が無い事を示し、マロングラッセの信用を
容易に得ることができた。

マロングラッセは講和のために、
わずかな手勢とともにokuの宿営地に向かい、
そして待ち伏せをしていたokuの騎兵に捕らわれた。
指揮官を欠いた9000ペソの兵士は
okuの率いるガリア人に包囲され、瞬く間に全滅した。


余勢を駆ったokuは、そのまま後方10キロの地点を行軍していた
無警戒の若武者の軍団に襲い掛かった。
若武者は輸送馬車を円形に配置し、円の中から
ドラを持った兵士達を交代で出撃させるという戦法をとったが、
時間がたつにつれ、使えるドラの数はみるみる減っていった。


前方の若武者の軍団が危機に瀕しているのを発見した
皇帝クラウディウスは、自らの率いる近衛軍団に
全面的な戦闘参加を命じた。
地形を熟知し、森や赤牌、隠しドラ3を巧妙に駆使するokuによって
ローマ軍は苦戦を強いられるが、
クラウディウス小四喜和了る事によって立川の深い森林を焼き払うと、
形勢は互角となった。


okuは戦機はすでに過ぎ去ったと察し、全ガリア人に撤収を命じた。
クラウディウスもまた、大損害を受けた味方の建て直しを図るため
全軍に立川からの撤退を命じた。


クラウディウスの率いるローマ軍は、4000ペソのガリア人を討ち取ったが、
ローマ軍全体では15000ペソに近い損害と、マロングラッセの戦死という
悲劇を味わう事になった。




立川のローマ化は完全に失敗し、元老院並びにローマ市民は
死んだ兵士達のために、100日間の喪に服す事となった。